ここが変だ

戦前の日本帝国の軍隊の作戦についての著作は多い。ノモンハン事件やインパール作戦。内容はなぜ失敗したのか、失敗の本質は何か、失敗により多くの帝国軍人を死に至らしめたかその責任はどうとったのか、その後責任者はどういう処遇を受けたのか。結論から言うと、責任の所在は曖昧だということ。その失敗の原因がはっきりとしないため、また同じような失敗を繰り返しあたら命を損耗していく結果となる。
ノモンハン事件などは失敗して帰ってきたものや捕虜になって帰ってきたものの運命は過酷だったようだ。毎日の食事時には傍らに拳銃が置かれていたという。その仕打ちに堪えかねて自死を選んだものも多かったようだ。しかし作戦を立てたもの、強引に進めた責任者、司令官や参謀の責任はどうだったのか。かえって責任を取らされることなく、昇進していき、失敗の経験は生かされず、最終的には大きな失敗へと結びついたといわれている。失敗の責任は厳しく取り、その後の苦節、臥薪嘗胆し今後に生かせばいいと思う。辞めたらいいのか。それで責任を取ったのか。どういう責任を取ったのか、今後どう責任を取るのかあいまいだ。だから日本の組織は失敗経験を生かせないのだ。成功体験に埋没してしまうのだ。